今年8月に子供が産まれてくる予定である。

 

周りの人にそのことを告げると、大半の人が「おめでとう!」の言葉とあわせて、決まって確認することがある。

 

「で、たちあうの?!」

 

答えは、「たちあう」だが、最近になって、いろいろと考える自分がいる。

 

「たちあうのか。たちあわないか。」

 

妻が出産まもない頃、通院に同行した際に助産師から確認され、予想外の質問だったこともあり、動揺しながらもどこか妻の期待に応えたい一心で、「たちあう」と反応的に答えた。

 

じっくり考えたわけでもなければ、妻とよく話し合ったわけでもないというのが正直なところだ。

 

その後も妻のお腹が日ごとに大きくなるのを眺めながら、産後の子育てについてあれこれ考えることはあっても、出産そのものについて考えることは一切してこなかった。

 

そんな自分ではあったが、病院主催の両親学級に参加した際、出産というものが想像以上に壮絶なものであることを改めて知り、それがキッカケで自分の頭で考えるようになった。

 

いろいろと考えていくうちに混乱してきて、そもそも「たちあう」という言葉の意味すら知らない自分に気づき、辞書を引いてみることにした。

 

「立ち会う」と「立ち合う」で、どうやら意味が少し異なるらしい。

 

「立ち会う」というのは、「その場に居合わせる」や「証人としてその場に出る」といった意味らしい。それに対し「立ち合う」は勝負、または格闘をするという意味を表すらしい。

 

出産に当てはめてみると、うまい具合にどちらも当てはまるような気がする。

 

ただ、男としては、とりあえずその場に居るだけのような「立ち会う」ではなく、妻とともに人生かけて闘うくらいの気概で「立ち合う」の方がどこかしっくりする。

 

今の時代、ネットを叩けば、それぞれのメリット・デメリットが丁寧に書いてあるが、読めば読むほど、自分の頭で考え、妻とともに結論付けたいと思う意固地な自分がいる。

 

そして、いまはこんな風に考えている。

 

たちあったところで、果たして自分に何ができるか。

決して、たちあいたくないのではない。

陣痛がはじまったら寄り添っていてあげたいし、他人事ではなく当事者として、励ましの声をかけるだけでなく、自分もめいっぱい気張ってみたい。

でも、いざ分娩室に入るとなったら、妻ひとりが入室し、自分は分娩室の扉の外で、手を合わせながら、ともに闘い、母子ともに健康であるよう必死で祈り続ける・・・これがいいと自分は考えている。

何時間になるかわからないが、頑張って、頑張って、最初に子供と対峙し、抱き上げるのは妻であるべき。

仮に、自分が分娩室に入ったとしても、自分にできることなど知れている。

それなのに、産み落とされた瞬間だけ立ち会うのは勝手すぎる。

いまこの瞬間から、これまで以上に、妻の肉体的精神的負担を軽減できるために自分に何ができるかを考え全力でサポートする。

そうやって、出産当日を迎えることができれば、分娩室の内と外という物理的な距離があったとしても、心ひとつにして、ともに頑張れるにちがいない。

 

先日、食事を摂りながら、上記を妻に話してみた。

 

妻は顔を引きつらせながら、「私はどっちでもいいから・・」という言葉を何度も繰り返しながら、徐々に表情がくもっていくのを目の当たりにして、再考の余地があることに気づいた。

 

冷静に考えると、選手を試合のフィールドに送り出すコーチのような、やや独り善がり的な発想すぎたかな・・・。

 

幸いにも、まだ時間があるので、今一度二人のこととして考えてみたい。

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