高校生から25年にわたってアメリカンフットボールというスポーツに関わってきた。

現在もご縁をいただき、近畿大学のお手伝いをさせて頂いているが、ひとつの節目であるような気がするので、これまでのアメフト人生を棚卸ししてみたいと思う。

そもそも、アメフトに興味を持ったのは、アメフトの伝統校・関西学院大学に通う親戚の兄ちゃんの強い勧めがキッカケ。

それからアメフトというスポーツを積極的に観るようになった。

激しくて男らしいスポーツ、華やかで格好いいなというのが第一印象。 

最終的にやりたいと思ったのは、やはり「格好いい!」「モテたい!」という気持ちが思春期の自分をかき立て突き動かした。

いまとあまり変わらない体型だったこともあり、心のどこかで自分を美化しようと企んでいたような気もする。

それがちょうど中学生の頃。

当時は柄にもなくバスケットボールをやっていたが、どうもシックリきていなかったなか、バスケットボールよりかは活躍の場があると確信していたのかもしれない。

 

上記のような思いを持ち続けたまま、高校受験シーズンを迎え、「自分の学力×アメフト部がある学校」という観点で、大阪の私学を専願受験するも甲斐なく不合格。

もう後がないなか、奈良の県立高校に無事合格したが、そこにはアメフト部もなければ、ラグビー部すらもなかった。

やむなく中学時代の延長線でバスケットボール部に入部したが、やっぱりシックリこなくて、本屋に行ってはアメリカンフットボール専門誌を見て憧ればかりを膨らませていた。

ある日、雑誌の巻末ページを読んでいると、プライベートフットボールリーグという存在を見つけた。週末のみ活動をしているクラブチーム、平たく言えば、草フットボールチームの組織。

大学進学後は何がなんでもアメフト部に所属すると決めていた自分としては、何もやらないよりかは、ここで基礎の基礎だけでも身につけて、大学から本格的に取り組もうと瞬時に決心。

そして、どうせやるなら、大学入学後、高校のクラブ活動でやっている連中に引けを取りたくないこともあり、そのプラベートリーグの中でも常勝チームだった大阪チェックメイトというチームに連絡をとった。

高校や大学時代にアメフトを経験した人たちで構成されており、20代が中心のチームではあったが、16歳になったばかりの自分を快く受け入れてくれた。

 

しかし、フタを開けてみると、練習頻度こそ少ないが、20代の先輩たちに埋もれながらの練習はとてもハードだった。

初心者の高校生であることなど一切関係なく、先輩たちは遠慮なく向き合ってくれていたように思う。時には泣かされることもあった。

「格好いい!」「モテたい!」という安易な気持ちで始めたアメフトではあったが、家族も驚くくらいにどんどんのめり込んでいき、週末が待ち遠しくて仕方なかった。

また、高校生にとって、大学生や社会人の方と接することが刺激だったのかもしれない。

知らず知らずのうちに、アメフトの基礎習得だけに留まることなく、処世術や不条理など・・いろいろ教わったようにも思う。

一方、平日の学内のクラブ活動はと言うと、バスケットボール部を早々に退部し、その後は柔道部、陸上部(投てき)と転々とした。

理由はひとつ。アメフトのラインマンに必要な要素を磨くにはどのクラブで練習するのが賢明なのかということだけを考え動いていた。

余談になるが、陸上の投てきの練習がもっともフィットしていた気がする。 

毎朝、授業前に自主的に筋トレを行い、放課後の練習では短距離ダッシュやバウンディングなどの出発力や跳躍力など・・とにかく体幹や下半身を鍛え上げるメニューを日々飽きることなく黙々と繰り返していた。

上記を読めば分かる通り、勉学という勉学は何ひとつしておらず、パッパラパーに磨きをかけ、すっかり落ちこぼれグループの一員となっていた。

浪人する方向で腹を括ろうと考えていたところ、ふと、アメフトで大学進学できないものか・・という発想が頭をよぎった。要は「スポーツ推薦」だ。

とても安易で軽卒な方法であることには間違いないが、当時の自分にとっては大きなチャレンジだった。

冷静に考えれば、プライベートリーグ出身者が高校アメフト部の連中に太刀打ちできるはずもない。

当時は、いい意味でも悪い意味でも一般常識がなかったのだろう、いくつかの大学に直接問い合わせてみたところ、3大学だけが快くチャンスを頂けた。

そして、プライベートリーグ関係者やチームキャプテンにも推薦状を書いてもらうなどご尽力いただき、何とか大阪体育大学からご縁をいただけた。

どこか冷静な面もあり、一般受験も平行して進めていた自分は、東京の大学の受験を終えて、深夜バスで帰る旨をオカンに電話連絡した時に、合格の知らせを耳にした。

勝手に開封するなよ!と一瞬怒りを覚えたが、嬉しさあまってその場でガッツポーズしたのを鮮明に覚えている。

いま思えば、「体育大学」でしかなく、その先の就職先も不透明、一般的には理解してもらえないのかもしれないが、何をどう言われようがたまらなく嬉しかった瞬間だった。

でも、人間というのは勝手なもので、大阪体育大学に入学した理由を、「親父が教員であること」「小学校5-6年時の日体大出身の担任教師に影響を受けた」などと話していた時期もあった。

後付けの話を堂々としていたのを恥ずかしく思う。

いざ大学が入ると、これまで大好きなアメフトが毎日できるという生活が、楽しくて仕方なかった。

しかし、時間の経過とともに、その生活にも慣れてゆき、レベルの違いや厳しい練習の繰り返しの中で、目標や目的も薄れてしまい、「所属していること」「やっていること」に満足するようになっていってしまった。

そんな浮ついた、生半可な状態のまま、2回生となると、レギュラーとして試合に出場するようになった。

一生懸命に取り組んでいたことには違いはないが、どこかのめり込めずに、そのせいからなのか、そのシーズンに「二部リーグ降格」することになる。

いまでも大阪長居球技場で行われた入れ替え戦のことを覚えている。

具体的な試合展開までは思い出せないまでも、その時のことを映像や感覚で覚えている。冬の冷たい空気が流れる、澄み渡った青空のもと、関西大学に惨敗し、シーズンは終了した。

ハドルの中央では、4回生が口々に責任を詫び、申し訳なさそうに肩を落として涙しているのを妙に客観的に眺めながら、来シーズンのことを考えていた。

なんとなく・・でやっていた自分なんかが試合に出ていたことがこういう結果をまねいたような気がしてしまい、来シーズン必ず一部復帰することを目標に、心を入れ替え、日々後悔しないよう、これまで以上の取り組みをしていこうと決心した。

3回生になると、シーズンインと同時に、生ぬるい自分自身に打ち勝つことからはじめた。

弱い人間なので易きに流されることもあったが、「一部昇格」という明確な目標のおかげで、徐々に自分にも打ち勝てるようになった。

徐々に周囲に対しても同じようなテンションや温度感を求めるあまりに、感情任せの大人げない言動を多々していたように思う。

チームスポーツである以上、周りも巻き込んでいく必要があると気付き、自分なりに行動してしたのだろうが、多くの術を持ち合わせておらず、一辺倒なアプローチに徹していたのだと思う。

4回生になると、キャプテンというポジションであるにも関わらず、そういったスタンスは何ら変わらなかった。

自己正当化しているようだが、「何を言われようが、どう思われようが、一部昇格すれば、すべてが許される」という一心だった。

同時に、当時を振り返り、なりふり構わず、怒鳴ったり、泣いたり・・子供のように感情を露にしていた自分を、みんなが仕方なく受け止め、支えてくれていたことで、成り立っていたのだとつくづく思う。

意気揚々とシーズンインするも初戦の龍谷大学に惨敗。

数週間後に第2戦を控えていたこともあり、足踏みしている暇などなく、すぐに顔を前に向けるほかなかった。

「あとはもう勝ち続けるしかない」という状況が、チームにより良い緊張感をもたらしてくれて、長いリーグ戦においても、イチミリも心緩ますことなく取り組めたように思う。

もちろん、当時はそんな風に思えるほどの余裕などなく、ただただ目前の一戦に立ち向かうだけだった。

それ以後勝ち星を重ね、運にも助けられて、念願の入れ替え戦へと駒を進めた。

対戦相手は2年前の入れ替え戦で戦った関西大学。

その時もやっぱり冬の冷たい空気が流れる、澄み渡った青空が広がる天気だった気がする。

皮肉にもまた関西大学に破れてしまい昇格の夢が断たれた。

試合終了後のことはあまりよく覚えていないが、「一部昇格すれば、すべてが許される」という一心で頑張った自分は、結果出せなかったことを後輩達に詫びていたように思う。

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いろいろあった4年間だけど、最も印象に残っていることがある。

毎日練習前に部室で行っていた4回生全員でのミーティングのこと。

「一部昇格」という結果も出せず、何を悠長なことをと笑われるかもしれないが、会社経営をしている今も時折思い出しては涙することがある。

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ちょうど大学アメリカンフットボール部40周年の寄稿に書かせていただいた内容でもあるので、流用させていただくことにしよう。

そして、社会人以降の棚卸しがまだ残っているが、一旦ハーフタイムをはさむことにしよう。

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アメリカンフットボールに明け暮れた大学4年間でしたが、そこでの経験はどんなものにも代え難い貴重な経験ばかりでした。

そして、私自身がそれら経験を語る際、同期なくしては語ることができません。

いま振り返ると、キャラクターこそ違えど、それぞれがそれぞれの持ち場で持ち味を発揮し、お互いに補完し合いながらチームに関わり合っていたように思います。

もちろん、美しい話ばかりではなく、感情を露に衝突することも多々ありましたし、私なんかは事ある度に感極まって涙流していたことを恥ずかしながら思い出します。

そんな沢山ある思い出の中でも、真っ先に思い出すことがあります。

それは、毎回の練習前に、4回生全員が部室でミーティングをしてからグランドへと向かっていたことです。

ミーティングといっても時間すると10分程度だったように思います。

授業の兼ね合いもあり全員集まれない日もありましたが、練習日は欠かす事なく続けていました。

おそらく私が最初に言い出したことなのでしょうが、何を目的に始めようと考えたのかは思い出せません。

ただ、シーズンインにあたり、何度も同期でミーティングを繰り返し、「一部昇格」を全員で約束し、ひとりひとりがそれなりの覚悟のもと挑んだシーズンでしたから、練習前に顔を合わせることで、原点を確認し合っていたのかもしれません。

特に、秋季リーグ戦初戦の龍谷大敗戦以降はよりその色合いが強まったように思います。

結果、初戦の敗戦を糧に、残り全試合を勝ち続け、入替戦出場を果たすも関西大学に破れ、「一部昇格」を果たすことなく、シーズンを終えました。

その忘れもしない入替戦の前日も普段通り部室に集まり、最後のミーティングということもあり、同期ひとりひとりが一言ずつ想いを語り尽くし、全員が涙ながらにグランドに向かったのを鮮明に覚えています。

いま思うと、主将という立場上プレッシャーに潰されそうな時に顔を合わせることで分散させてもらっていたような気すらします。

卒業後20年近く経った今でも、人生に迷ったり悩んだりした時は、仲間達の顔を思い浮かべては気持ちを前に向けている自分がいます。

そんな仲間達との出会いを与えてくれたアメリカンフットボール、またその仲間達と大阪体育大学スパルタンズというチームでプレーできたことを心から誇りに思っています。

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