親父の部屋には書棚がいくつもあり、そこには様々なジャンルの本が並べられている。教育関連から現代小説、歴史小説、実用書や趣味に関するものからエッセイ、詩や俳句・・・と多岐にわたる。

 

自分の場合、途中で読書放棄したものも、まるで読了したかのように並べて満足していることがあるが、親父の場合はまったく違う。一冊一冊の本の隅々まで読み終えている。

 

そして、トップページに「大野蔵書」という判子を押し書棚に保管をしている。それがルールとなっている。

 

実は自分のオフィスにも「大野蔵書」と判子の押された本が何冊かある。

 

社会人になってからというもの、帰省のたびに、不在の隙をねらって、親父の部屋にもぐりこみ、書棚に並んでいる興味深いタイトルの本を取り出しては、ざっと斜め読みして面白そうなものをこっそりと持ち帰ってきたものだったりする。

 

世の中には、読書家と呼ばれる人は山ほどいると思うが、親父は読み終えると、内容をこまめにノートに書き留めている。そして、そのノートの表紙には「閻魔帳」と力強く書かれている。

 

家族に軽々しくノートを見られないようにと、「閻魔(えんま)」などと恐怖心を煽るような名前にしているものだと思い込んでいた。

 

がしかし、あらためて辞書を引いてみたところ、「教師が受け持ちの生徒の成績や出欠などを記入しておく手帳の俗称」と出てきて、意味深いものではなかったことにガッカリさせられたのを思い出す。

 

現役の教員ならば、生徒や父兄、教員たちの前で話すことを想定しながらノートに書き留めておくのも分かる。でも、現役を退いたいま、何ら必要ない。

 

じゃあ、一体なんのためにノートに書き留めるという作業を続けているのか・・・いまだ聞いたことのない謎ではあるが、自分としてはこのように推察している。

 

そもそも、戦後まもない時代に、貧しい家で生まれ育ったせいか、物を大切にする習慣があるのだろう。代金を支払う以上、代金以上のものを獲得してやろう・・という精神が見え隠れしたりする。

 

本当の倹約家なら、代金を払って本を購入するようなことはせずに、図書館に足をのばし、本を借りるのだろうが、そこは親父なりの贅沢なのだろうか。

 

もうひとつは、予防やトレーニングと位置づけ、親父なりにこっそり取り組んでいるのかもしれない。

 

すっかり忘れっぽくなってきた自分、後期高齢者まで妙読み段階になった自分に危機感を覚えているのだろう。それらに必死で反発しようとしているかのようにも映ったりする。

 

頭だけでなく、毎朝5時前に起床し、ウォーキングやサイクリングを継続しながら足腰を鍛え、健康増進にも励んでいる。

 

ただ実際はというと、負けん気が強く、妙にプライドの高い親父は、子供に世話にはなりたくない・・世話になる前にくたばりたい・・と口癖のように言い続けてきているから可愛くない。

 

20代の頃に送られてきた手紙においても、「“負けん気”つまり泣き言を言ったり、無様なところを人様に見せるのが“ゲンクソワルイ”という気持ちだけはもって生きてきた」などと、多くを語らない親父が自らを語っていたくらいなので、この推察は当たらずとも遠からず・・な気がする。

 

最後に、もうひとつ。

 

これは、昨年帰省した時に、東京観光について、親父とあれこれと話をしていたところ、例のノートを持ち出してきて、どこが良かったとか、こんな所にも行ったとか・・ノートを見ながら熱心に話すものだから、たまらずにノートを覗き込んでみた。

 

すると、みっちりと文字が敷き詰められているのが確認できた。また何かの機会に行った時のことを思い備忘録として書き留めているのだろう。

 

ただ、どこかそれだけが理由ではないような気がしたりもした。

 

ここ数年、「自分の葬式代くらいは残してあるから心配するな・・」といったことをよく口にするし、昨年こっそり部屋に入った時も、「死言状」というタイトルの本がデスクに置いてあり、どこかで自分の人生の締めくくり方をいろいろ考えているかのようにも感じた。

 

そんな風に考えると、親父は親父なりに、ノートを書き上げながら、自分の人生の足跡を残す作業をしているのかもしれないと思った。

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